内省したんです。
四月某日 晴
対談の仕事で、都心に出る。
相手のI田さんから聞いた話。
小さいころから、視力がとてもよく、おそらく3.5ほどはあった。
校庭の銀杏の木の幹にカンニングペーパーをはって、カンニングをしたこともある。
でも、マサイ族などにはもっとずっと目のいい人もいるので、自分のはたいしたことはない。
とのこと。
そうか、たいしたことは、ないのか......。
四月某日 曇
いやいや、たいしたことがないはずはないと、朝、昨日のI田さんの言葉を思い返しながら、突然確信。だって、校庭の木にはった紙に書いてある文字が見えるんですよ。昨夜は、「すごい!!!」と、大いに感心するべきだった。
このように、きちんとものごとを追求できず、うやむやのうちになんだか相手の言うことを、それがたとえ謙遜であっても、あるいは反対に理不尽ないいがかりであっても、ともかくその場では鵜呑みにして納得してしまう性質を、どうにかできないものかというのは、昔からの悩み。
反射神経がにぶいというか、事なかれ主義というか、考え不足というか。
仕事をしたり家事をしたりする合間にも、悩みつづける。
四月某日 晴
飲み会。
といっても、純粋な飲み会ではなく、いろいろな初対面の人たちと、顔あわせがわりの飲み会。
とても苦手な席。というのは、「その場ではよそさまの話を鵜呑みにしてうんうん頷いているだけ」の言動をおこなってしまう機会が、初対面の人たちとの席では、ことに多いからである。
そうならないよう、必死にその場で頭をくるくる回転させてみる。
回転させてみたけれど、うんうん頷くことしかできず。
結論。生身の人間が喋る時の「勢い」のようなものは、とても強いので、その「勢い」に反するようなことを考えることは、わたしには不可能。だから、うんうん頷いているだけでいいのである。もし翌日以降、「あれは、ちがった!」と気がついたら、文書で反論すべし。でも、そんなことをする気力はないし、だいいちそんなことをしても怖いだけだから、うんうん頷いているだけで、やっぱりいいのだ。
そう考えてゆくと、わたしの小説は、もしかして、これまでの人生でできなかった「文書で反論」の総代替物なのかもしれない......。
などということを、しみじみ考える春の暮なのでありました。
四月某日 晴
しばらくの間、内省的になっていたので、ぱあっと気持ちを変えるために、いちごを山のように買ってくる。
いちごとさくらんぼというのは、なぜこんなに人をしあわせにしてくれるのだろう。
朝にもいちご、昼にもいちご、夜にもいちごを食べ続けて、内省を払う。
