東京日記

川上弘美 絵 門馬則雄
第237回

まだ知らない......。

十一月某日 曇

 お向かいさんの庭に、昨日から突然テントが出現している。テントは黄色くて、小さい。

 昼間、二階の窓から眺めていると、中から三人もの男性が次々に出てくる。三人は手に手にアウトドア用品を持ち、一人がガスバーナーで火をおこせば、もう一人は三脚的なものに網をのせ、もう一人は網の上に鍋を置いて湯をわかしはじめる。

 三十分、じっと眺めつづける。鍋ではまずラーメンをつくり、卵を落とし、それぞれのどんぶりに分配。次に網の上で野菜と肉を焼き、それぞれの皿に分配。最後にお湯をわかして、コーヒーをドリップしていた。

 男性たちはたぶん四十歳前後。厚着をしてどの人も帽子をかぶっている。話し声までは聞こえないが、しごく和気藹々と満足した雰囲気。キャンプなどのアウトドアはたいそう苦手なわたしだが、うらやましい気持ちをおさえることができない。なんだかくやしくて、この先一カ月は決してラーメンを食べないことを決意。

 

十一月某日 晴

「まちがって隣の人のサラダを食べた......ブロッコリが入ってた......」という、家人のうめき声で目が覚める。

 夢からはっきり目が覚めたころ、うめいたポイントは、隣人のサラダをまちがって食べたことだったのか、あるいはブロッコリが入っていたことだったのか、聞いてみる。

「もちろんブロッコリが入っていたこと」

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 だそう。

 

十一月某日 晴

 ラーメン屋で修業する夢をみる。ラーメン禁止の決意の影響か。

 迷いを振り払うために、近くのローソンまで散歩し、ドラクエウォークの「ローソンメダル」をゲット。同時に、無料のコーヒー券もゲット(ゲーム内のローソンキャンペーン期間なので、ローソンの近くまでゆくと、いろいろなものが手に入るのである)。

 ラーメンばかりでなく、コーヒーまでもがわたしの無意識に沈潜して、キャンプへのうらやみをかきたてているのだろうか。そのうらやみの気持ちが、無料コーヒー券を引き寄せたのだろうか。

 無料コーヒー券は、決して使わないことを決意。

 

十一月某日 晴

 結局、ラーメンやコーヒーに関する葛藤は、お向かいさんにキャンプを共におこなえる友だちがいることへのうらやみ、すなわちこの日記全体をひそかにおおっている「友だちがいない問題」に帰着することを、ようやく自分に対して認める。

 問題を解決しようと、ずいぶん連絡をとっていない友だち(たぶん)に、メールをしてみる。そして、おそるおそるラインに招待してもいいかと、聞いてみる。

 気軽に「OK」の返事がくる。

 嬉々として招待をおこない、三往復ほどのやりとりをし、心の平安を得る。けれど、そののちこの原稿を書いている現在までの少なくとも二カ月は、その友だち(たぶん)とはふたたびLINEをすることがないことを、その時の自分はまだ知らない......。

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十一月某日 曇

 久しぶりに買い物に行く。

 葉物野菜売り場の前で、突然見知らぬ女の人に話しかけられる。

「きのう、玄関の前にメジロが死んでたんです。しばらくしても、ずっと死んでたんです。それで、庭にお墓をつくりました」

 とだけ言い、女の人はすうっと離れていった。

 

十一月某日 晴

 少しばかりしんみりしていたこの一カ月を振り返り、気持ちを晴らすために、ラーメンを解禁することにする。

 キャベツともやしと豚バラ肉ときくらげをたっぷり入れたサッポロ一番塩らーめんをつくり、あまさず食べる。

 心の平安、たいそう満たされる。結局ラーメンが食べたかっただけの一カ月だったのではないかと、自分を疑う。友だちだって、いないわけではないし(この時はまだ、友だち(たぶん)からその後もうLINEは決してこないことは、まだ知らない......)。

  • 第237回  まだ知らない......。
  • 第236回  月に頼る。
  • 第235回  青魚の懸案。
  • 第234回  新手の地獄。
  • 第233回  じゃがりこ期。
  • 第232回  コロシアム建造。
著者略歴

川上弘美(かわかみ・ひろみ)

作家。1958年、東京生まれ。著書に、『センセイの鞄』『ニシノユキヒコの恋と冒険』『七夜物語』『猫を拾いに』ほか多数。「東京日記」シリーズは、『卵一個ぶんのお祝い。』『ほかに踊りを知らない。』『ナマズの幸運。』『不良になりました。』ほか、最新刊『赤いゾンビ、青いゾンビ』も好評発売中。

平凡社

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