東京日記

川上弘美 絵 門馬則雄
第182回

内省したんです。


四月某日 晴

 

 対談の仕事で、都心に出る。

 相手のI田さんから聞いた話。

 小さいころから、視力がとてもよく、おそらく3.5ほどはあった。

 校庭の銀杏の木の幹にカンニングペーパーをはって、カンニングをしたこともある。

 でも、マサイ族などにはもっとずっと目のいい人もいるので、自分のはたいしたことはない。

 とのこと。

 そうか、たいしたことは、ないのか......。

 


四月某日 曇

 

 いやいや、たいしたことがないはずはないと、朝、昨日のI田さんの言葉を思い返しながら、突然確信。だって、校庭の木にはった紙に書いてある文字が見えるんですよ。昨夜は、「すごい!!!」と、大いに感心するべきだった。

 このように、きちんとものごとを追求できず、うやむやのうちになんだか相手の言うことを、それがたとえ謙遜であっても、あるいは反対に理不尽ないいがかりであっても、ともかくその場では鵜呑みにして納得してしまう性質を、どうにかできないものかというのは、昔からの悩み。

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 反射神経がにぶいというか、事なかれ主義というか、考え不足というか。

 仕事をしたり家事をしたりする合間にも、悩みつづける。

 


四月某日 晴

 

 飲み会。

 といっても、純粋な飲み会ではなく、いろいろな初対面の人たちと、顔あわせがわりの飲み会。

 とても苦手な席。というのは、「その場ではよそさまの話を鵜呑みにしてうんうん頷いているだけ」の言動をおこなってしまう機会が、初対面の人たちとの席では、ことに多いからである。

 そうならないよう、必死にその場で頭をくるくる回転させてみる。

 回転させてみたけれど、うんうん頷くことしかできず。

 結論。生身の人間が喋る時の「勢い」のようなものは、とても強いので、その「勢い」に反するようなことを考えることは、わたしには不可能。だから、うんうん頷いているだけでいいのである。もし翌日以降、「あれは、ちがった!」と気がついたら、文書で反論すべし。でも、そんなことをする気力はないし、だいいちそんなことをしても怖いだけだから、うんうん頷いているだけで、やっぱりいいのだ。

 そう考えてゆくと、わたしの小説は、もしかして、これまでの人生でできなかった「文書で反論」の総代替物なのかもしれない......。

 などということを、しみじみ考える春の暮なのでありました。

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四月某日 晴

 

 しばらくの間、内省的になっていたので、ぱあっと気持ちを変えるために、いちごを山のように買ってくる。

 いちごとさくらんぼというのは、なぜこんなに人をしあわせにしてくれるのだろう。

 朝にもいちご、昼にもいちご、夜にもいちごを食べ続けて、内省を払う。

 夜中、いちごくさいげっぷがたくさん出る。幸福は苺匂へるおくびかな。という俳句をつくり、家人に見せ、いやがられる。

  • 第182回  内省したんです。
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  • 第179回  下駄スケート。
  • 第178回  生き霊をさばく。
  • 第177回  爆発しそうなんです。
著者略歴

川上弘美(かわかみ・ひろみ)

作家。1958年、東京生まれ。著書に、『センセイの鞄』『ニシノユキヒコの恋と冒険』『七夜物語』『猫を拾いに』ほか多数。「東京日記」シリーズは、『卵一個ぶんのお祝い。』『ほかに踊りを知らない。』『ナマズの幸運。』ほか、最新刊『不良になりました。』も好評発売中。

平凡社

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