第30回 「「愛」である神の属性(三)信実」
●神の信実
神学用語としては、ドイツ語のTreueを信実と訳すが、より一般的には、誠実とか確かさという意味である。神は人間との間の約束を、誠実に守り続けるということだ。仮に人間側が約束を破るようなことになっても、神の側からは、決して約束を反故にすることはない。信実をめぐり人間と神の関係は非対称なのである。
もっとも、神が人間との間の約束を守るという態度を、「いったん約束したことは覆せない」というような、神の硬直性と解するならば、それは大きな間違いだ。神は人間との応答の関係で、約束を守るのである。神の信実は動的に理解されなくてはならない。
この点について、佐藤敏夫の指摘に筆者も全面的に賛成する。佐藤敏夫はこう述べる。
〈第三に、神の信実(Treue)ということがあげられる。それは約束を守る点で態度が不変であるという風に解される。しかし、神学史上ではこの不変ということはimmutabilitasという意味でも理解され、神の属性の一つとして尊重されてきた。しかし、われわれはこれに対しては批判的たらざるをえない。immutabilitasという意味での神の不変性の主張は、多分に神学が古代の哲学的概念に影響された結果である。哲学的な絶対者は確かに不変であればこそ絶対者なのである。しかしキリスト教の神はそうではない。その神は神でありつつ、人間のために人となる方である。さらには十字架上において死を引き受ける方である。すなわち神は不変の神ではなくて変化する存在である。したがって、immutabilitasという意味で神の不変性について語ることには賛成できない。しかし神はたしかに契約の民に対する約束については不変な方である。つまり神は信実な方なのである、このように神は信実であるという意味で不変であるかぎり、われわれはこれに同意することにやぶさかではない。〉(佐藤敏夫 『キリスト教神学概論』 新教出版社、1994年、103頁)
ラテン語のimmutabilitasは、通常、不動性と訳されるが、不変性という訳語があてられることがある。この概念だと、神の動的性質が見えなくなってしまう。「神の存在が生成の中にある(God's being is in becoming.)」(エバーハルト・ユンゲル)という暫定的定義であらわされるところの、動的な神が見えなくなってしまう。
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