第29回 「「愛」である神の属性(二)義と憐れみ」
●義と憐れみの弁証法
ここでこれまでの議論を少し整理しておきたい。
神の本質は、「主であること」と「愛であること」だ。
スコラ神学(啓蒙主義以前に展開された古プロテスタンティズムのスコラ神学も含む)の伝統に従えば、神の本質から、神の属性を見出すことができる。
「主であること」という神の本質からは、「聖性」、「全能」、「全知」、「遍在」、「永遠」という属性を導き出すことができる。
「愛であること」という神の本質からは、「恩恵」、「義と憐れみ」、「信実」、「知恵」という属性を導き出すことができる。前回までに、神の属性のうち、聖性、全能、全知、遍在、永遠、恩恵については説明した。
「義と憐れみ」については、これまでの事項と比べて説明が難しい。なぜなら義(justitia)と憐れみ(misercordia)が、弁証法的な関係にあるからだ。
まず、佐藤敏夫の記述を見てみよう。
〈第二に義と憐れみがあげられる。二つの言葉を同時に並べるのは、神学史上対語として論じられてきたからである(justitiaとmisercordia)。問題は両者の間の矛盾をどのように調整するかである。神は一方では罪に対して義を貫こうとし、他方では憐れみからゆるそうとする。この対立をいかに解決するかである。
これに対して先ず持ち出したいのは、若きルターの塔の体験である。彼における福音の再発見と言われるものである。それまでは、彼にとってローマ一・一七の「神の義」は、justitia activaとして、人間の罪に対する報復的義と解された。彼はそのかぎり神の前に恐れ戦かざるをえなかったが、やがてあの「神の義」はjustitia passiva としてとられるべきものであり、したがって神から賜わる義と解すべきであるという結論にいたった。これはルターが身をもって成し遂げた神学的解決である。〉(佐藤敏夫『キリスト教神学概論』新教出版社、1994年、102頁)
ルターは、パウロの「ローマ人への手紙」を解釈することによって、義と憐れみの弁証法的関係に気づいた。以下のテキストが鍵となる。
〈福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。〉(新約聖書「ローマの信徒への手紙」第1章17節)
ここでは、二つの信仰が問題にされている。一つは、個人の信仰による義認(神によって「正しい」と認められること。そうすれば救われる)の問題だ。もう一つは、イスラエル民族が神と契約したことに対する神の信義の問題だ。「神の義」が福音によって全世界に啓示されるのである。神は信じる者に対して、神自身が義となることによって、神を信じる者(信じる民族)を義とし、信仰を媒介項として、人間の救済を実現するのである。神の働きは、信仰を通じてのみ明らかにされるのである。
ルターが発見した「神から賜わる義」とは、具体的に何を意味するのであろうか? 罪をもつ人間は、苦しい状況の中で生きている。「神から賜わる義」とは、神が愛の力によって人間の苦しみを引きうけることだ。これが神の憐れみなのである。
神は、静止した、感情をもたない絶対者ではない。神は現実に生きている人間の苦しみに心を痛める動的な存在なのだ。それだから、人間の悲惨さの最も深い深淵にまで降りるために、イエスを人間の世界に派遣したのである。神の義は、新しい何かを創り出す力を持っている。
〈神の義は、計算可能な合理的な義だけではなく、創造的な義という面をもつとわれわれは言いたい。アリストテレスは(正)義について二種類あるという。配分の義と整正の義である。前者は、たとえば功労に応じて賃金をはらうとか、責任に応じて損失を分担する場合である。後者は、個人間の合意的ないし非合意的関係における賠償の公正のことである。いずれの場合も計算可能な合理的なものである、それにたいしてティリッヒは創造的義があるという。それは愛を内に含んだ義、それ故に愛と一致する義、それ故に合理的義を突破する非合理的超合理的な義である。例をあげれば、「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きな喜びが天にある」(ルカ一五章)という場合である。〉(佐藤敏夫『キリスト教神学概論』新教出版社、1994年、102~103頁)
信仰には合理性を壊す力がある。このことを理解しない限り、キリスト教の本質をつかむことはできない。
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